作品
猛禽類は緑の楽園の夢を視るか
その家の一日は夫と妻(?)の食に対する衝突で始まるのが常だった。
今日も勿論例外ではなく、朝食の場に並んだメニューの中で一際異彩を放つ、見事なブロッコリーのクロカンブッシュを前に夫はそのまま後ずさりをする。
当然見逃さずに目を光らせる妻とは対照的に、外見だけは妻に似すぎる程似ている、彼らが一人息子はまるで動じずに大人しく席に着く。
「どうした? 黒鷹」
「どうした、じゃないよ。朝っぱらから何の嫌がらせだい、これは」
「嫌がらせ、とは心外だな。素晴らしい出来映えだろう?
ドレッシングも綺麗に掛かってくれた。少々食うのが勿体無い程だ」
妻が誇らしげな表情でそんな事を言う一方、息子は相変わらず自分の為だけの拘りを主張しているな、お前と小さく呟く。
ブロッコリーのクロカンブッシュは確かに見事な出来なのだが、大皿にこれでもかという勢いで盛られているそれは、三人で食すには量が少しばかり標準的ではない様に見受けられた。
玄冬に言わせると、日頃野菜を摂らずに逃げ回っている黒鷹にはこれで丁度いいくらいだ、と返されるのが関の山なのだろうが。
「ああ、そうだな。確かに勿体無い。芸術的だよ、これは。
よって、私はそれを破壊するには芸術を愛する者として非常に忍びない。
忍びないのでこれは食物だと認識するのは遠慮させて貰……」
「そんな言い訳が通用すると思っているのか?
大人しく席に着け。全ての食物は生命の糧となる為に存在しているんだ。
それを無下にするような真似はこの俺が許さん」
徐々に険悪になっていく養父母(……)を横目に、子どもは一人礼儀正しく食前の挨拶を済ませ、
(誰も聞いてはいなかったが、彼には気にする程でもない些細な事らしい)
朝食を摂り始めた。
直ぐに事態が変わることにはならないだろうとさっさと見切ってしまった結果だ。
いつでもこの家では尤も幼い筈の彼が一番冷静なのである。
ボケとツッコミで言うのであれば、こくろは間違いなくツッコミだが、養父母である黒鷹と玄冬は揃ってボケときている。
ゆえに、家の中で唯一のツッコミであるこくろの役割は非常に重要な位置を占めていたが、最近はあまりの養父母の暴走っぷりについて行けず、放置プレイを覚えたらしい。
それもまた、形を変えたツッコミであろう。
肝心の養父母はそれに気付くこともないボケっぷりを継続させているのが、些か哀しいところかも知れないが。
ああ、無情。
幸いなのは彼はそれさえ吹っ切ってしまうほどの冷静さを身につけていたことか。
「君が許してくれようとくれまいと、私は自分の思うままに行動させて貰うまでさ。
そういうことで、少しばかり今から市場にでもふらりと!」
「逃すかっ!」
夫がこの場から逃げる為に素早くマントを羽織り、人型から鳥型に変化しようとした瞬間、妻が目にも留まらぬような速さで何かを彼に向かって投げつける。
カカカッ!!
鋭く空気を裂いたかと思えば、壁に数枚のカードが突き刺さって黒鷹の行く手を阻んだ。
カードは昨夜、家族揃ってゲームをしていた時の物だろう。
夫には一枚も当てることはなく、しかし、見事に身体の線に沿わせている辺り、素晴らしい技の片鱗を見せている。
流石の夫も虚をつかれたらしく、不敵な笑みを浮かべる妻を凝視した。
そして、相変わらずそんな夫妻の一人息子はその様子を一瞥しただけで、黙々と一人食事を続けている。
内心でまた養母は腕を上げたらしい、と少しだけ感心しながら。
「……フ……いつの間にかまた腕を上げたようだね、玄冬」
黄金色の瞳が実に嬉しそうに笑いの形を取る。
対する青い瞳も負けず劣らず嬉しそうだ。
緊迫している空気を除けば、微笑ましい図でさえある。
あくまでも除けば、の話だが。
「ああ、喜べ。俺の師匠は『疾風の黒鷹』の異名を持つ男だ。
師匠譲りの素早さは筋金入り。仕込んでくれて感謝しているぞ。
おかげで今みたいな時に役立ってくれるからな」
「ほう。それは確かに素晴らしいことだ。
弟子の成長は師匠としても鼻が高い。
だが、その師匠に牙をむこうとは人の道に背くことにはならないかね?
感心ならないな。私はそんなことの為に君に技を授けたわけではないよ」
「人の道に背く、だと? ……笑わせる。
何処ぞの誰かが、与えられた大自然の恵みから逃げようとさえしなければ、こんなことになる筈も無い、違うか?
今ならブロッコリーは茹でたてだ。より美味い。
こっちとしても自信作なんだ。何としても熱いうちに食ってもらうぞ。
さぁ、大人しく席につけ」
「断る……と言ったら?」
何時の間にか、双方の目は笑っていない。
それぞれ、さりげなく間合いを探ってじりじりと動いている。
「無論、持てる力の全てを使ってでもお前に食わせてみせる」
片手にはカード、もう片手には菜箸を掲げながら、玄冬が高らかに宣言する。
そして。
「面白い。やれるものならやってみたまえ!
先ほどの動きは既に見切った! 次は同じようには行かないぞ、玄冬」
何も手にしていない黒鷹は挑発するようにマントの裾を優雅に翻した。
養父母がそんなやり取りをしている間に、こくろはすっかり朝食を平らげていた。
諍いは続くだろうという読みは正しかった。
食前の挨拶同様食後の挨拶も一人律儀にこなし、食器を重ねて台所まで持って行き、流しに置く。
夫妻はそんな子どもの様子は眼中にないらしい。
いつもの事だけどな、と小さい呟きと溜息の後、子どもは自分の部屋に戻っていった。
養父母のどちらかが部屋に来るまでは本でも読んでいようとのんびり思考を巡らせて。
こくろがそうして去って行った後も状況は変わらない。
食卓で火花を散らせる夫妻はといえば、相変わらず逃げる一方の夫に対し、妻は時折菜箸も牽制に利用しながら、カードで攻撃を繰り返していた。
「逃げるのもいい加減にしろ!
こっちは栄養価も考えて日々食事を作っているというのに、お前と来たら!」
「多少、食事が偏っていたって死にやしないよ!
……っと、危ない。今、かなり本気だったな、君!」
カードと言えど、速度を伴えば立派な武器。
髪のごく一部を切られた黒鷹が逃げの体制には手を抜くことなく文句を言う。
「当たり前だ! ったく……夫の健康管理も妻の役目だ。
食事一つでぐだぐだ言うな。大人しく食え!」
「ああ、もう! 普段はふざけて妻だの夫だの言ったら、目の色を変えて怒る癖に、何でこういう時だけ異様にノリがいいかな、君は!
その食事一つに対して、ここまで躍起になってるのは誰だい!」
「五月蝿い! 郷に入れば郷に従え、目には目を、歯には歯を!」
「待ちなさい! 後半、何か意味が違うのが混じってるよ!
復讐劇じゃないぞ、これは!」
「ああ、意味は違うな。だが、今の状況を表すにはそう間違ってない。
お前がどうしても逃げるというのなら、俺は追うだけだ。
そして食わせる!」
時折、壁に刺さったカードも引き抜いて、再び攻撃に使っているとは言っても、カードの数には限度がある。
素早さを誇る黒鷹を相手に攻めのスピードを落とすだけでも、そのまま隙が出来てしまうからだ。
動いているうちに手元で引き抜けるカードはともかく、わざわざ場所を移動しなければならなかったりするものまでは使えない。
が、玄冬としてはそれを黒鷹に気取らせるわけにはいかない。
不得手な自覚はありつつも、言葉でも攻める方向に切り替えた。
「大体、子どもの前でみっともないと思わないのか?
教育上にしたって良くないことぐらい、見当がついてないとは言わせないぞ、それでも二児の親か!」
親、という言葉に僅かに眉が動いたが、そこ止まり。
あくまでも相手は動揺を見せる様子もない。
「心配することないと思うがね!
君だって、偏食することもなくここまで大きく育ってくれたんだし。
実際こくろは食事を残さないじゃないか。
良い子に育ってくれてお父さんは嬉しいね……って。
玄冬、怖いよ、その顔は本気で怖い!」
「誰がさせてると……っ! ふざけたことをぬかすのも大概にしろ!
何で子ども二人に出来ることが親のお前に出来ない!
なぁ、こくろ。お前もそう思うだろう!」
妻にとって、夫は夫であると同時に養父でもある。
ほぼ玄冬が生まれた時からの付き合いであり、長い時間一緒に過ごしている身としては、今に始まったことではないというのは、当然承知している。
だが、食材の殆どは妻が日々丹精込めて作っているものであり、料理にしてもそれは同じこと。
偏食、の一言で済まされるには納得できるものでもない。
「こくろなら既にいないぞ。
いけないなぁ、食卓は家族揃って一緒にとる、ということを私は教えた筈なのに、最近のあの子ときたら、さっさと見切って一人で食事することを覚えてしまった。
ううむ、これは由々しき問題」
「何? ……っ……しまった!」
こくろのことに気を取られ、食卓を振り返った玄冬は次の瞬間盛大に後悔した。
隙を見逃さなかった黒鷹は素早く後ろ手に窓を開けながら、鳥の姿に変化し外に飛び出たからだ。
急いで窓辺に駆け寄るも、既に相手は手の届かない場所まで舞い上がっている。
「くそっ……降りて来い、黒鷹! 直ぐに鳥型になるのは卑怯だぞ!」
「いやだね! 君だって言ったじゃないか。持てる力の全てを使って、と。
これは私の立派な力の一つだからね。使えるものは使うさ!
夜には帰る。お土産を楽しみにしていたまえ! ハハハハハー!」
「待て、このっ」
勝利の雄叫び代わりのつもりか、嫌味なくらいに大きく響かせた羽ばたきの音が少しずつ遠ざかっていく。
眉間の皺も取れぬままに、妻は夫の発言を思い返してしまい、また皺が一層増えた。
「……誰の……誰の所為でこくろに一人で食事をさせてしまっている羽目になっていると思っているんだ、あいつは……!」
実際のところ、その原因には黒鷹が大人げも無く偏食を主張することが確かに大きく占める部分はあるのだが、玄冬がその主張に対して譲ろうとしないことも原因の一端ではある。
生憎と玄冬本人にはその点に対しての自覚はあまりないのだが。
玄冬が溜息を吐きながらも、今回は諦めて窓を閉め、食卓についた。
メインディッシュのブロッコリーのクロカンブッシュは綺麗に一角が崩されている。
残っているのは、しっかりと全体の量の三分の二程。
当然、養父母二人の事を考えての量だろう。
「……食い終わったら、茶を持ってあいつの部屋にいくか」
最近、こんな展開が多い所為で子どもが一人で食事を取る事が珍しくはなくなってしまっている。
原因はさておき、黒鷹の言葉で出てきた由々しき問題、というのには頷ける部分は確かにある。
冷めかけてしまっている朝食を前に、玄冬も先ほどのこくろと同じように食前の挨拶をこなしてから、箸に手をつけた。
「……くそ。こっちの気も知らないで」
一人で摂る朝食の切なさに再び溜息を吐いたが、それを彼が自覚することはなかった。
***
一方。見事に逃げおおせた黒鷹はといえば、既にそういう場合の避難所となりつつある、彩の王城内にある厨房にて、栄養を補給していた。
己の趣向に忠実に、見事肉ばかりを選んで。
「アンタも懲りないね、黒鷹サン。
そろそろ奥さんに愛想つかされても知らないよ?
まぁ、そうなったら俺が黒鷹サンを貰ってあげてもいいけど?
こぐま君と一緒にさ。
俺、熊さんは苦手だけど、アンタとこぐま君は好きだし」
桜色の髪をした青年が本気とも冗談ともつかない口調でそんなことを言う。
この城に住んでいる救世主たちの中で最年長である彼は、黒の鳥がそれなりに気に入っているらしく、城に来ていると気配を嗅ぎつけて傍に来る。
「君の目的はこくろかい、私かい。
しかし、どちらにしても無用の心配というやつだ。
玄冬が私に愛想をつかす筈がないからね」
「あっそ。でもそこまで愛されてる自信があるのに、よく相手の好意を無下にするような真似が出来るよね。
俺、色んな意味で感心しちゃうんだけど」
「う……いいや! 今朝のあれは好意じゃない、明らかに嫌がらせだ!
そもそも、ブロッコリーなんてクロカンブッシュにするようなものじゃないだろう、あれは!
君は実際に見ていないから解らないんだよ。
あの見た目の破壊力が……!」
朝の衝撃を思い出してか、黒鷹が背筋を震わせた。
「んー、確かに積み上げられていたら凄いかもとは思うけどね。
でもさ、熊さんが作ってる食事って黒鷹サンやこぐま君のことを考えてなんでしょ?
嫌がらせとしか解釈できないのも、どうなのかな」
「……大くん。君は私の味方とあの子の味方、どっちなんだい」
げんなりとした黒鷹の呟きに、赤い瞳が愉快そうに細められた。
「俺はどっちの味方でもないよ。客観的に思ったこといってるだけ。
あえて言うなら、俺は俺の味方。
ま、これが白梟とアンタじゃどっちにつくかってのは明白だけどさ。
俺、あの人にだけは逆らえないし」
「……正直な申告をどうも」
「何言ってんの。黒鷹サンとこの二人で考えてみたらいいじゃん。
俺や花白、ひよこはあの人につくけど、熊さんやこぐま君はどっちにつくと思う?」
「…………」
考えるまでもない。
黒鷹が余程のことをしない限り、黒の鳥の子どもたちは当然黒鷹につくだろう。
「甘やかして貰っているうちが華だよ、黒鷹サン。
最近、しょっちゅう彩に来てるじゃん。
そろそろ本気で怒らせないように引いたら。
いつまでも許して貰ってるのが当たり前だと思ってると、そのうちしっぺ返しが来るんじゃないの」
内心、少しは気にしていた部分をつかれて黒鷹が黙り込む。
やりすぎたかも知れないという意識はある。
が、そこで素直にはいそうですかと折れることの出来る性質なら、今頃彼がここに居る事もないわけで。
結局、黒の鳥は苦笑い一つを零し、忠告をありがとう、とだけ呟いてその場を去った。
「偶には素直に謝りなよー、黒鷹サーン」
ご丁寧に背後からかけられた追い討ちの言葉。
いたたまれなさを増幅させられた黒鷹は小さな溜息を吐いた。
***
「こくろ。茶を淹れて来た。飲まないか?」
かつては玄冬の部屋だったそこは、こくろが現れてからはこくろの部屋となり、玄冬は黒鷹の部屋で一緒に生活している。
子どもは部屋にいるだろうとの読みは当たり、直ぐに扉は開いて小さな顔を覗かせた。
「飲む。丁度喉が渇いていた」
「そうか、なら良かった。邪魔するぞ」
部屋の中は玄冬が生活していた頃とそう様変わりはしていない。
不都合もないし、と殆どがそのままの状態だ。
が、不思議なもので使う人間が違うと空気が変わる。
懐かしさと違和感を覚えながら、玄冬はベッドサイドにあるチェストの上にトレイを置く。
トレイに載っているのはティーポットとカップ二つ。
カップそれぞれに茶を注ぎ、そのうちの一つをこくろに手渡し、自分もカップを持ってベッドに腰掛ける。
部屋には椅子もソファも置いていないので、二人でそこに腰掛けるしかない。
しばらくは揃って静かに茶を飲んでいたが、不意に玄冬が口を開いた。
「……すまなかったな」
「うん? 何がだ」
「また一人で食事をさせてしまって」
「ああ、そのことなら気にしなくて良い。
せっかくの温かい御飯が冷めるのは忍びなかったし、かといって、お前達も止めそうになかったから、さっさと食べただけだ。
茹でたてのブロッコリー、美味かったぞ」
「有り難う」
「でも、量とバランスは考えて作った方がいいな。
最近、やたらに野菜を避けてる黒鷹への当てつけだったんだろうけど、あんな風にしたらあいつが逃げようとすることぐらい、想像がつかないわけじゃないだろ、お前なら。
余ったブロッコリー、昼飯の時は調理法を考えてくれると嬉しい」
養父が逃げて、朝食のブロッコリーが残ってしまっていることもお見通しの子どもは養母にそんな提案をする。
「そうするさ。あいつは昼飯時には帰ってこないだろうけどな」
「夕食時も帰ってこないかもな」
「……お前も冷静に言うな」
「今までを考えると容易に予想がつく。……大丈夫だぞ」
「うん? 何……」
唐突にこくろに頭を撫でられて、思わず玄冬は絶句してしまう。
自分がこくろの頭を撫でることや、黒鷹に頭を撫でられることはよくあることだが、年下のこくろに慰められるような形でこんなことをされるとは予想していなかったからだ。
「きっとあいつも今頃反省してる。
素直にそれを言うことも中々出来ないだろうから、散々あちこちうろついてから帰ってくるだろうけど。
でも、あいつは何があっても最後は絶対にここに帰ってくる。
だから、そんな傷ついたような顔しなくても大丈夫だ」
「……っ。傷ついてなんか……」
「鏡。そこにあるけど見るか?」
「…………いや、いい。遠慮する」
見ると自己嫌悪に陥りそうな自分を想像して、玄冬はただ首を振った。
傷ついている、というのはあながち間違ってはいない。
哀しい、という方がより近いのだろうが。
せっかく作ったものをどうして、と思う面もあったが、相手が黒鷹だからこそ許せない、という面もある。
いや、その方が思考の大部分を占めるだろう。
玄冬が料理を始めたきっかけは黒鷹だった。
養い親を驚かせようと思って初めて作った料理が失敗に終わり、盛大に落ちこんでいたところに、また作ってはくれないのかい?と言ってくれた言葉が嬉しくて。
黒鷹が喜ぶ顔が、美味しいと言って食べてくれることに満たされる思いがして。
数日家を空けていても、帰って来て、やっぱり君の料理が一番だ、という言葉に心が温かくなる。
なのに、最近逃げられてばかりで料理を食べて貰う機会さえ少ない。
感謝や労いが欲しいわけじゃない。
見返りを求めているわけでもない。
ただ否定はされたくない、突き詰めてしまえばそれだけなのだ。
無論、黒鷹に否定の意図があるとは玄冬も思ってはいないのだが、続いてしまうと沈んでしまう。
それを自覚してしまうと、どれだけ自分の中で黒鷹の存在が大きいのかということに気付かされるから、落ち込む一方だ。
「狭量だな、俺も」
「そんなことはないと思うぞ。寧ろ度量は広いと思う。
おれがお前の立場だったら、とっくの昔に黒鷹に三行半叩きつけてるだろうからな。
こんな状況でも一緒にいたいと思うから哀しいんだろ、お前」
「こくろ」
「それをそのまま抑えずにあいつにぶつけたらどうだ?
そのくらいでお前から離れるやつとも思えないぞ。
万が一離れたとしたら、その程度の相手だったと思えば良い」
「…………」
「許すのも大事だけど、時には許さないことも大事だと思う。……違うか?」
「そうかも……知れないな」
ようやく、固いままだった養母の表情が和らいだのを見て、子どもも相手に悟られないように軽く肩の力を抜いた。
***
結局、反省はしているものの、それを自分でも中々受け入れられなかった、あまり威厳のない一家の主が家に戻ってきたのは日付も変わろうかというような夜中。
妻はともかく、息子は間違いなく眠りについているだろうと夫は静かに家の中を歩き、夫婦の部屋に向かう。
途中気になって台所や居間も覗いたが居なかったのを考えると、やはり妻は自分達の部屋にいるのだろう。
「……コホン、ただ……いま……」
小さな声の呼びかけと共に部屋の扉をそっと開ける。
就寝にはまだ少し早いから、玄冬は部屋で本でも読んでいるかと黒鷹は予想していたのだが、そこには彼はいなかった。
が、部屋からそのまま続いている寝室から灯りが微かに零れている。
眠っているのかと思うと、謝るタイミングを逃したような、ほっとしたような。
少々複雑な思いを抱えて、黒鷹は寝間着に着替え、自分も寝室に踏み込んだ。
日頃二人で眠っているベッドの片側に身体を寄せて、妻が眠っている。
起こさないように、こっそりとベッドの空いている側に潜り込んだが、その瞬間に玄冬が目を覚ます。
一瞬だけ綻んだ顔は直ぐに不機嫌な表情に変わり、夫の方に背を向ける。
露骨過ぎる拒絶に流石の夫も怯んだ。
「た……ただいま。遅くなって済まなかった」
「………………」
「……えーと…………返事くらい貰いたい、のだけども……黙殺は流石に寂しいなー、と」
後ろめたさを自覚している夫はどこまでも弱気だ。
「……勝手に出て行って、勝手に戻ってきたヤツ相手に何を言えと。
……知るか、お前なんか」
拙い、と思考が警鐘を鳴らす。
長い付き合いだ。
相手の怒りが本気のものか、そうでないかくらい、黒鷹には感覚で解る。
背筋が冷える思いに、やはり戻ってくる時間が遅すぎたと考えても遅い。
「それについては、その……悪かったと思っているよ。
せめて、こっちを向いてはくれないかね。
このままじゃ話も出来ないし、何より寂しい」
「いつも、自分だってしていることなのに、よくそういうことが言えるな」
「玄冬」
「作った飯に全く口もつけられずに、逃げていくお前の背をいつも眺めているのはこっちなんだが」
「…………」
返す言葉もない、とはこの事だ。
「もう知ったことか。いくらでも外で食ってくればいい。
作ったものを無駄にされるのもうんざりだ」
上掛けを頭まで被ってしまった玄冬はもう会話もしたくないと言わんばかりだ。
妻の怒りの深さを知って、途方に暮れそうになるが、少なくともこのまま黙っていたら修復も出来ない。
そっと上掛けの上から、黒鷹が玄冬の身体を撫でる。
手を撥ね退けられなかったことが救いだった。
「……済まなかった。
どうも君に甘え過ぎて限度を弁えられずに、追い詰めるような真似をして悪かったと思ってるよ。
……そもそも君が料理を覚えてくれたのは私の為なのにな」
びくり、と上掛け越しに妻の身体が言葉に反応する。
「緑のものを好きになることは難しい、とは思う。正直なところな。
……だが、なるべく食べる努力はする。
野菜だからと言って、全く箸をつけずに逃げ出す真似はしないようにもする。
だから……それで許してはくれないか。
流石に全く君の料理を口に出来なくなるのは哀しい」
「……」
「こんなでも……感謝はしているんだ。料理に限らずね。
君が家事一通りをこなしてくれているおかげでこの家はまともに機能していられるんだから。
良い子に育ってくれたと思っているし、良い奥さんを貰ったなとも思っ……」
「いい。……もういい」
軽く溜息をついた気配がしたかと思うと、上掛けを剥いで、その下から苦笑いの妻の顔が現れた。
険のとれた表情に夫は心底ほっとする。
「こっちも当てつけるようなメニューにしていたのは確かだからな。
……その点は、その、俺も悪かったと思う」
「謝ることはないさ。そもそもそこまで君を追い詰めたのも結局は私だ。
……まだ許してくれるかい? 奥さん」
「……本当にお前が一口も食わずに逃げるような真似はしないというなら、な」
「ああ」
自然に閉ざされた瞼と軽く開いた唇に、黒鷹が意図を汲んで、妻に優しく口付けを落とす。
温かく柔らかな感触は幾度味わっても飽く事はない。
折りしも今は深夜。
夫婦二人の時間を仲睦まじく過ごすにこれ以上のタイミングもない。
「今日は一日君の料理を食べずじまいだったからね。……出来ればこのまま君を食べてしまいたいところだが」
「自分でその料理から逃げた癖に調子の良いことを言ったものだな」
「自分でもそう思うよ。でも喧嘩の後にするのはいい、とも聞くし」
「? そうなの……か? どうしてだ? 理由がよくわからん」
「うん、私も知らない」
だから、今から試してみないか。
そう呟く夫に妻は拒むこともなく、仕方ないな、とだけ微笑って返し、自分に伸ばされた手に応じた。
***
(こんなことになるだろうと思ってはいたんだよな。予想以上の破壊力だが)
翌朝。
無事に養父母の争いが収束していた、まではいい。
が、漂うオーラが。
あからさまに放出されている仲良しオーラは和みを通り越して、居心地の悪さを醸し出しているから、息子としてはたまらない。
「玄冬、これ切れてないぞ?」
「あ、悪い。ほら」
「ああ」
黒鷹が箸で、切り損ねていた為に繋がっている胡瓜を持ち上げると、玄冬がその切れ端の片方をやはり箸で引っ張ってちぎり、揃って同時にそれを口に入れる。
同じ行動をした事に気付いた二人が目を合わせて微笑み合うのだ。
そんな場面をうっかり見てしまったこくろはしばし固まる。
「うん? どうしたね、こくろ。食が進んでないぞ、君」
「具合でも悪いのか?」
「いや……何でもない。気にするな」
本当は心の底から少しは子どもの目を気にしてくれと言いたいが言わない。
いや、言っても無駄なのだ。
言ったところで本人達は何の事を言っているのか解らないに決まっているから。
こういう部分は無駄に似た者夫婦で困る。
それでも、二人とも子どもを気遣って、あれこれ話しかけてはくれるものの、それ以上に夫婦二人の空気を作ってしまっているものだから、いたたまれない。
本人達にまず自覚はないのだろうが、だからこそ性質が悪いとも言える。
二人きりの時にいちゃつけと言いたいところだが、具体的にどうしろと言うのが、流石の息子にも言い難い為に、半ば苦行の様になってしまっていた。
強制的に受け取らされるを得ない仲睦まじいオーラから、逃げるに逃げられないというのは醸し出してる本人達以外にとっては苦痛でしかない。
例え、彼らの一人息子であろうとも。
(一人で食事していた時の方がマシだったかも知れない……朝っぱらから何の拷問だ、これは……)
しかし、それを言うことも当然出来ようもなく。
今後、何かあっても露ほども介入してたまるかと密かに誓いを立てる一方で、まぁ、仲良きことは美しきことと言うしな、と彼は目の前の光景には無理矢理自分を納得させることにした。
いつの世も一番苦労するのは常識人と相場は決まっているのだった。
2006/11/05 発行
個人誌『猛禽類は緑の楽園の夢を視るか』から。
打鶏肉家族設定話なので、こっちに持ってきました。
一冊の本にしたものをそのままなので、それなりに長いです。
打鶏肉はホント萌え過ぎて、どうしようか思いました。
まさかの公式による黒夫婦の図(待て)が拝める日が来ようとは!
ビバ打鶏肉家族!とそんな話です。
私が書く時点で黒夫婦がどこまでもバカップルになるのは仕様です。
- 2008/02/01 (金) 00:02
- 番外編