作品
第11話:春の祝福を受け、楽園の扉は開く(前編)
「? ……気のせい、か?」
それはいつもと変わらないある日の午後。
ダイニングの片付けをしていた時のことだ。
何となく腹に違和感を感じたような気がしたものの、それはほんの一瞬。
気にはかかったものの、その後は特に何ともなかったから、やっぱりさっきのは気のせいだったのかと、そのまま片付けを続ける。
が、片付けがもう少しで一段落するという頃にそれは起こった。
「…………っ!!」
ずきん、と腹で内側を強く掴まれるような痛みに膝が崩れてしまい、その場で蹲る。
その拍子に棚に収めようとしていた茶葉の入った缶を取り落としてしまって、床に落ち、派手な音を立てた。
…………ああ、そうか。これが。
ついに始まったか。
「何を落としたんだい、玄冬。
随分大きな音が……。玄冬!?」
痛みが治まると同時に黒鷹が駆け寄って来た。
不安げな表情に心配いらないというように笑いかけた。
「大丈夫だ。……始まったみたい、だな」
「陣痛かい!?」
「ああ、多分。いや、間違いないだろうな」
もう、いつ生まれてもおかしくない頃合いだ。
予定日といわれていた日まではもう数日あったが、予定は予定で一つの基準でしかない。
「……っ! ああ、村に行って産婆さんを呼んでこなければならないな。
えっと、それに準備を。
産着に産湯に……えーと、それから……何を……」
「落ち着け、黒鷹。
まだ生まれてくるまで半日くらいはあるはずなんだから。
どれもまだ慌てる必要はない。まずは一回深呼吸しろ」
「…………案外落ち着いてるね、君」
「お前がうろたえすぎなんだ。
……一応、いつ来てもおかしくないと覚悟はしてたからな」
勿論、経験のないことに対する不安はないわけではないが、まだ本格的にどうこうなってない所為だろう。
確かに自分でも落ち着いてはいる方だと思う。
直前でどうなるかは、流石にわからないけれども。
「む、そうか。とにかく、私は産婆さんを迎えに行って来るよ。
準備は帰ってきてから私がやるから、君は横になってなさい、いいね?」
「わかった。お前も慌てすぎて怪我とかするなよ。
まだ時間はあるんだからな。急ぐ必要はないんだから」
黒鷹の表情に余裕が無いので、割と本気で心配だ。
手早く、黒鷹が身支度を済ませ、俺にキスして、腹を撫でて。
鳥の姿に変化して、空の向こうに飛んでいった。
心なしかいつもより飛んでいくスピードが速い。
大丈夫か、あいつは。
流石に黒鷹にまで何かあっては困るんだがな。
さて、黒鷹は帰ってきてからやるといっていたが、まだ今から寝ていたところでやることもないし、陣痛だって来る間隔は空いているはずだ。
大丈夫だ、陣痛が来てないうちは動ける。
あいつが戻ってくるまでにある程度の準備はしておこう。
どうせ、そろそろだとは思っていたから、必要なものは全部揃っている。
実際のところ、今の時点でやるような準備はそんなに多くない。
軽く湯を浴びて、消毒したタオルや産着をすぐ手に取れる場所に出しておくくらいか。
産湯に使う湯は……まだ今から沸かしていても冷めるしな。
ああ、でも喉を潤すためのお茶を淹れるために沸かしておこう。
あと、黒鷹の分の夕食も今のうちに簡単に用意を。
さすがに夕飯時になったら、食事を作るどころの状態ではないだろうから。
とりあえず、湯を浴びるために風呂場に行って着替える。
服を脱いだところでまた痛みが走った。
「く…………っ」
さすがに陣痛が来ると立っていられない。
その場に座りこんで、痛みが治まるのを待つだけだ。
少しの間の後、痛みが落ち着いて顔を上げると、目の前の姿見に自分が映る。
大きく前に出てきた腹。
腹が出始めてきた頃、少し外出するのが気恥ずかしかったが、黒鷹があまりにも満たされたような表情でいるのと、周囲の人たちの対応が柔らかく、温かかったのとで、そのうち外に出るのが楽しくなっていったのを思い出す。
順調にいけば、丸一日後にはもうこの大きさの腹を見ることもなくなるのか。
「……もう少しで逢えるんだな」
この数ヶ月で馴染んだものと別れるのかと思うと寂しい部分もあるが、確実に楽しみな部分もある。
腹をそっと擦りながら考えてみる。
生まれてくるのは男か女か。
髪の色はどんなだろう? 目の色は?
顔立ちはどっちに似ているだろうか。
俺はあまり人見知りをしなかったと黒鷹は言うけど、この子はどうなるだろう。
いや、まずは元気に生まれてくれればそれでいい。
性別や外見がどうであっても、嬉しいことには違いないから。
「頑張ろう、な」
腹に向かって呼びかけると、それに応じるかのように子どもの鼓動が伝わった気がした。
- 2008/01/01 (火) 00:11
- 第一部:本編
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