作品
第12話:春の祝福を受け、楽園の扉は開く(後編)
「…………っく…………ん……!」
玄冬が苦しそうな表情で私の両手首を掴む。
ぎり、と皮膚に爪が食い込む勢いだから、あちこち傷になっていて、かなり痛い。
だが、玄冬の感じてる痛みはそんなものではないはずだ。
この子は行為の際に昔から背に爪を立ててしまう癖があるけど、それに気付いて気遣うのが常だ。
だけど、今は私の手首を傷つけていることに気付いてもいない。
本当に目一杯なんだろう。
陣痛が始まった頃は大分余裕があるように見えたし、産婆を連れてきた時にもまだ大丈夫そうだった。
しかし、少し前に陣痛の訪れる間隔が十分を切る位になり始めたころから、かなり辛そうになってきている。
男はこういうとき無力だ。
傍についているだけしかしてやれない。
苦しがっている様子を見ているだけというのは、予想以上にきつかった。
いっそ少しだけでも変わってやれるならどんなに。
陣痛の波が去ったのか、少しだけ和らいだ表情になった玄冬の額に軽く口付けを落とす。
玄冬の余裕がないのはこんなところでも窺える。
普段なら、絶対に他人のいるところで口付けなんてさせてはくれないから。
「…………ろた……か」
「うん? どうしたね?」
「お茶…………欲しい。一口で、いいから」
「口移しでも?」
「ん……」
「少し待ちなさい。……ん」
「…………っ」
口にお茶を含んで、玄冬に口移しで飲ませる。
こく、と喉が鳴ったのを確認して唇を離し、
ハンカチで唇の端から零れたお茶と顔の汗を拭いた。
「他にして欲しいことは?」
「いや、後は平……気……っ!」
「…………っ」
再び陣痛が来たらしく、また私の手を掴んで玄冬の表情が歪む。
ぱん、と何かが弾けたような音に何かあったかとびくりとしたが、玄冬の足元にいる産婆が状況を教えてくれた。
「大丈夫。破水だよ。……ああ、子宮口も十分開いたね。
もういきんでいいよ。あとちょっとだからね、頑張りな!」
「あ……と…………ちょっ……と……っ!」
玄冬の手に一層力が入り、私も玄冬の手首を握った。
もうかけてやる言葉も見つからずに、そうやって陣痛の来るたびに玄冬がいきんで。
繰り返される荒い呼吸音と歯を食いしばる音が妙に耳につく。
その癖に、度々産婆がかける声は耳を素通りしていって、何を言っているかわからなくなってくる。
あまりにも辛そうな様子に早く終わってくれと祈ってから、一体どれほどの時間が経っただろう。
張り詰めていた場の空気が、柔らかいものに変わった気がした。
「ふ……ひゃああぁ!!」
次いで部屋に響いたのは甲高い赤子の……泣き声。
思わず、玄冬と顔を見合わせる。
「おめでとう。生まれたよ。元気な女の子だ」
「女……の子……」
二人で呆然としている間に、産婆は手際よく臍の緒を切り、産湯にその子をくぐらせる。
そうして、生まれたままの姿で枕元につれて来た。
「まだ後産が残ってるけどね。まずは抱いてやりな」
「本当に生まれた……のか……」
玄冬が私の腕から手を離し、その子を産婆から受け取って抱き上げた。
少しぐずって泣いていたのが、玄冬が抱いた途端にぴたりと泣きやむ。
量の少ない薄い髪は玄冬と同じ色。
玄冬の横から子どもを覗き込んで、顔立ちを確認すると無性に懐かしくなった。
「……驚いたな。君の小さい頃にそっくりだ。やっぱり親子だね」
きっと玄冬に似て、可愛く成長するだろうな。
想像するだけで顔が緩んでくるのがわかる。
そっと頭を撫でてから、私も抱かせてくれと腕を玄冬に差し出して、赤子を受け取る。
私が抱いても、子どもは泣かなかった。
やっぱり両親だというのがわかるんだろうか?
ああ、いつまでもこのままなのも可哀相だ。
産着を着せてやらないと。
もう一度玄冬に赤子を戻して産着を取りにいったら、あ、と玄冬が小さく声を上げた。
凄く嬉しそうな響きで。
「どうかしたかい?」
「目の……色が」
「うん?」
「目の色が……お前と一緒だ。……黄金の……」
「ほう? どれどれ……ああ、本当だ」
それまで目を閉ざしていた赤子が目を開けて私達を見ている。
玄冬の言ったように、私と同じ色をした黄金の目が。
何処となく、夢か現かといった感じだったのが、少しずつ生まれたという実感を伴ってくる。
……まいったな、胸が一杯で泣けてきそうだ。
玄冬と私の娘。
お疲れ様、とか。頑張ったね、とか。可愛い、とか。
かけたい言葉は山ほどあるはずなのに、声が出てこない。
玄冬が赤子に産着を着せている間も、ただそれを眺めるだけになってしまう。
不意に居間の時計がボーンと日付の変わったことを告げる音を鳴らし、ようやく我に返った。
ああ、そういえばこんな時間。
そして……。
「……一日ずれた、ね」
「うん?」
「誕生日おめでとう。玄冬」
そう、今日は四月二十六日。
今のこの子が生まれた日。
今の玄冬は、私が最初に育てた玄冬と同じ日に生まれた。
何か、縁みたいなものを感じていたから、子どもの方も、もしかしたら同じ誕生日になるかと思ったのだが、結局はほんの少しずれてしまったようだ。
「あと少しこの子が生まれてくるのが遅かったなら、同じ誕生日だったのにね」
「え、あ……そう、か。
子どもが生まれてくる日ばっかり気にしてたから、すっかり自分の誕生日なんて忘れていた」
「君らしいな」
「……黒鷹」
「うん?」
柔らかい眼差しの玄冬が私を真っ直ぐに見つめる。
「有り難う。…………今までで最高の誕生日プレゼントだ」
「頑張ったのは君とこの子だろう? 私に礼を言うことはないよ」
実際、私は玄冬と赤子が必死で頑張っていた間に何も出来なかったし、何も言えなかった。
ただ、一つの命が間近で生まれてくる様子に圧倒されてしまっていただけだ。
「……そんなことはない。
だってお前がいなかったら、この子は生まれなかった」
玄冬が腕の中の赤子の額にそっとキスを落とす。
それがとても貴いものとして、私の目に映る。
ああ、私は。
この子達を守るためならば、きっと何でも出来るだろう。
溢れてくる愛しさの感情に従い、玄冬の頭を優しく抱いた。
「玄冬」
「うん?」
「本当に…………有り難う」
「黒鷹」
「……有り難う」
「…………ん」
私の手首に触れた玄冬の唇が、傷に染みて僅かの間忘れていた痛みをもたらす。
だが、その痛みさえ、今は幸福の後押しにしかならない。
どうしようもないほどに心が温かさで満たされていた。
- 2008/01/01 (火) 00:12
- 第一部:本編
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