若い時に付き合っていて、堀先輩の結婚を機に別れたけど、十数年ぶりに久々に再会したという流れの堀みこ。
体調崩した御子柴を堀先輩が看病。終盤から修羅場の幕開けとなります。
初出:2015/05/06 同人誌収録:2015/06/14(Immorality of target。掲載分に多少の修正等あり)
文字数:17868文字 裏話知りたい場合はこちら。
[御子柴Side]
「くそ……参ったな」
頭がやたら重くて痛い。
少し身体を起こそうとする度、気持ち悪さもこみ上げてくるのがキツい。
何とかトイレぐらいは行けても、そこで限界だ。
少しでも腹に何か入れた方がいいんだろうけど、どうにも食欲が湧かない。
せめて水分補給だけでもと水を飲んでも、少し経つと気持ち悪くて吐いてしまう。
こんなに体調を崩すのは久し振りだ。
最近、少し仕事が忙しかったせいだろうか。
昨日は先輩にどうしても外せない仕事先との飲み会があると、どうにか誤魔化して会うのを断り、プロジェクトの会合がある今日は体調を立て直して会うつもりだったのに。
週に二回早朝にジムで会うのと、平日会社帰りにほぼ連日に近いくらいで会ってはいるけど、プロジェクトの会合がある日は、特に理由を誤魔化さずに堂々と先輩と会える数少ない日だ。
正直、気の持ちようというか、心構えが違う。
「今頃心配させてんだろうなぁ……」
何とか会社には欠勤連絡を入れたものの、先輩には連絡を入れ損ねてしまっている。
昼辺りにメッセージ入れようと思ったら、そこで意識が途切れちまったらしく、気付いた時には会合の開始時間を過ぎていた。
そのタイミングでメッセージを入れても遅い。
先輩にしても会合が終わるまでは、メッセージを確認出来ねぇだろう。
そういや、明日の朝はジムの日だったけど、そっちも今の状況考えるとまず無理だよな。
プロジェクトの会合終わった辺りを見計らって、メッセージ入れねぇと。
こういう時、一人暮らしってキツいなとしみじみ思う。
連絡すれば、親は来てくれるだろうが、親父が今年に入ってからあまり体調が良くないから、正直余計な気を回させたくない。
……家族いたら違ってくるんだろうな、こういう時。
一瞬だけ、先輩の顔が浮かんだけど、思考から追いやった。
向こうにはちゃんと『家族』がいる。
不公平だと思わないわけじゃないが、それを分かっていて先輩との関係を続けているのはこっちだ。
「大体、他の誰かと家族にってのも想像出来ねぇしなぁ……」
あえて言えば、鹿島とはルームシェアしても感覚的にはやっていけそうだが、あいつの方の状況を考えると無理だ。
単に親友同士だって言っても、同居となるとちょっとした騒ぎになるだろうし、俺の方も多分いらない部分でストレスを抱えることになる。
これで、鹿島がテレビに出ないような仕事だったら、状況はまた違ったかも知れねぇが。
――老後、二人とも結婚してないままだったら、同じ老人ホームに入って余生を過ごしていくってのも一つの手かもね。
鹿島とそんな会話をしたことも実際あるが、あくまでそれは遠い先の話だ。
けど、その遠い先まではどうしたらいいんだろうな。
先輩との関係にしたって、今はこのままでいいけど、それがずっと続いていくわけでもねぇだろうし。
……ダメだ。
体調悪いと、どうも思考もマイナス方向にずるずる引きずられていっちまう。
プロジェクトの会合終了までは、まだ時間があるし、それまでもう一眠りすることに決めた。
***
部屋に来客を知らせるチャイムの音で目が覚めた。
出られる状況じゃないからスルーしようとしたところで気付く。
この音、下のエントランスからのチャイムじゃない。
直接部屋の前から鳴らしているチャイムの音だ。
なんで、と思っていた矢先に手元のスマホが着信を知らせる。
先輩との連絡用のスマホじゃなくて、自分の元から持っている方のスマホだけど、発信元は先輩のプライベート用のスマホだった。
そういや、プロジェクトの会合終わっててもおかしくねぇ時間だな。
つい、寝入っちまってたらしい。
先輩との連絡用のスマホはリビングで充電したままだったし、あっちはマナーモードで音もバイブも鳴らさないように設定してある。
俺が気付けなかったから、こっちにかけてきたのか。
「……はい」
「実琴!? おまえ、大丈夫か? 今、おまえの部屋の前にいるから開けろ」
「え!? 何でここに」
さっきのチャイム鳴らしてたの先輩かよ。
「下のオートロックだったら、他の部屋の住人がちょうど来たとこだったから、そのまま入らせてもらった。いいから、開けろ」
「……っと、待って下さい」
一度、通話を切ってベッドから出た。
……うわ、やっぱりまだ目眩が酷くて、頭ぐらぐらする。
けど、下手に先輩待たすのも悪いし、余計に心配させるのも目に見えていた。
どうにか、気力を振り絞って玄関まで行き、玄関の鍵を開けた途端、血相変えた先輩が部屋に入り込んできた。
「大丈夫かよ、おまえ。メッセージも返信ねぇから……おい、大丈夫か?」
「すみま、せん……ちょっと目が回っ……」
先輩が来てくれて気が抜けたせいか、目眩で足元がぐらついた拍子に、つい、先輩の肩に掴まってしまった。
……しかも、急に動いたのもきたのか、吐き気がこみ上げてくる。
ヤバい、先輩のスーツ汚すわけにはいかない。
どうにか離れようとしたけど、先輩が俺の腕を支えるように掴んだ。
「無理すんな。吐きそうならトイレ行くか?」
「すんま、せ……」
どうにか、吐き気は堪えながらトイレに移動したが、便器の蓋を開けたところでもう限界だった。
崩れ落ちるように、しゃがみこんで、こみ上げてきたものをそのまま吐き出した。
「けほ……っ」
くそ、もうさっきから胃液しか出て来ねぇから、喉もひりひり焼け付くように痛む。
先輩が背をさすってくれて、一通り吐き出すとちょっとだけ落ち着いた。
先輩がハンカチを差し出してくれたから、それで口を拭わせて貰う。
「す……んませ……」
「……おまえ、今日全然食ってねぇだろ。胃液しか吐いてねぇ」
便器の中に吐いたものは見事に黄色い胃液だけだから、察したらしい。
「あ……どうにも食うのも……飲むのも気持ち、悪くて」
「水もダメか。……病院連れてく。寝ててどうにかなる状態じゃねぇよ。おまえ、かかりつけの病院とかあるか?」
「や、特には……」
「じゃ、救急指定の病院でいいな。タクシー呼ぶから行くぞ。保険証どこだ? あと、この家の鍵」
「財布の、中……です。鍵も財布の直ぐ近く」
「ああ、あった。これだな」
仕事用のカバンに入れっぱなしだった、財布と鍵を直ぐに見つけたらしい先輩がそれを取り出して、直ぐどこかに電話し始めた。
その間にと、キッチンで軽く口をゆすぐ。
口の中の気持ち悪さが少しは軽減されて、リビングに戻ったところで、俺のコートを出してきてくれてた先輩が、それを肩の上から掛けてくれた。
「着てろ。タクシー、十分以内には来るって言うから」
「ホントすみません」
着替える気力もなかったし、上にコート着てれば足元はさておき、ぱっと見は誤魔化せるだろうから、そのままパジャマの上からコートを羽織った。
こういう時、冬場なのは有り難い。
さっきの電話してた先はタクシーか。
病院に行くために玄関を出て、はたと気付く。
……そういや、ここエレベーターねぇから、階段降りてかなきゃなんねぇんだよな。
地味にキツいと思ってると、先輩が心配そうに尋ねてきた。
「階段平気か? 背負ってやろうか?」
「……肩だけ、貸して貰っていいっすか」
流石に足元がふらついて、一人で階段を降りる自信がない。
かと言って、三階から下まで背負って貰うのも流石に申し訳ない。
けど、先輩の肩に掴まりながら、階の半分ほどまで降りた踊り場のところで、先輩が溜め息を吐きながら足を止めた。
「……おまえ、無茶するな。背負うから乗っかれ」
「え、でも」
「実琴」
「…………ごめん」
本音は結構しんどかったから、結局は先輩の言葉に甘えた。
しゃがんだ先輩の背にのし掛かる。
「よ……っと」
かけ声を掛けながら背負ってくれたところで、先輩の首に腕を回す。
……先輩に背負われたのなんて、初めてだな。
知ってたけど、結構力あるし、小柄だから目立たないけど、意外にがっしりしてるんだよなぁ、先輩。
足取りにしたって、ふらつく様子が全くない。
俺だって、特に体重が軽いわけじゃねぇのに。
「狡ぃ……」
こんなことされたら、惚れ直しちまいそうだ。
「何だ? どっか痛かったり、気持ち悪かったりすんのか?」
「平気。何でもねぇよ」
先輩の身体に纏わり付いていた煙草と香水の香りが、不意にふわりと漂って来たが、それが心地良かったことに何となくほっとした。
***
病院で点滴を打って貰ったら、大分楽になったけど、それでもまだしんどくて、病院から家に帰った途端に、コートだけ床に脱ぎ捨てるとベッドに倒れ込んだ。
結局、先輩は帰りもマンションの階段で俺を背負って三階まで上がってくれて、ちょっとエレベーター無しのところを選んだのを後悔してた。
……くそ、こんな迷惑掛けるつもりなんかなかったのに。
ばさりと布がはためくような音がして、その方向を見てみると、先輩が俺の脱いだコートをハンガーに掛けてくれたところだった。
「……すんません」
「気にすんな、病人。……寝るまで傍にいてやるから、もう大人しく寝ろ」
先輩がベッドに腰掛けて、布団から出してた俺の手を握ってくれたから、こっちからも先輩の手を握り返した。
――すみません、迷惑かけちまって。会計済んだら帰っていいって言われたんで、もうこっちは大丈夫ですから。
――いい。今日はこのままおまえの家に泊まっていく。
――でも。
――いいから。とっくに家にも言ってある。
点滴が終わって、診察室を出たところでのやりとりを思い出す。
奥さんに不審がらせる材料増やしたんじゃねぇかと気になるけど、こういう時は正直有り難い。
そういや、先輩がこの家に泊まっていくって初めてだな。
泊まりにしたって、久々に再会したあの日と、旅行の時ぐらいだけど。
どうせだったら、もっと違うタイミングで泊まりだったら良かったのに。
「過労と風邪っつってたな。そういや、帰宅時間、このところ少し遅かったっけ。忙しかったのか」
「ああ……まぁ、ちょっと。最近転職で入ってきた新人の指導とかあったからなぁ……かといって、あまり自分の仕事後回しにしちまうと、先輩と会う時間少なくなるし」
昼飯はハッキリ言って、ここしばらく碌なもん食ってなかった。
食う時間を仕事に回して、なるべく帰宅時間を遅くしすぎないようにしてたからだ。
それでも、前に比べて少し遅くなってはしまってたから、これ以上帰りを遅くはしたくなかった。
帰宅時間が遅くなれば、その分先輩と会える時間が減る。
仕事自体は繁忙期って程でもないから、まだどうにかなるなんて思っていたが、ちょっと見通しが甘かった。
「それでぶっ倒れてちゃ意味ねぇだろ。……若くねぇんだから、あんまり無茶苦茶やるともたねぇぞ」
「……すんません」
先輩の手が俺の前髪を掻き上げたかと思うと、額にキスしてくれた。
優しい触れ方に嬉しくなる。
迷惑掛けたのや、心配させたのは申し訳ないけど、今夜は先輩が傍に居てくれるっていうのが心強い。
「というか、ここまでなる前に何で――」
先輩が言いかけたところで口を噤む。
せめて、親に助けを求めねぇのか、か?
「……親父がちょっと前から、あんま身体の調子良くなくて。だから、あんまり親には気遣わせたくねぇんだ。鹿島なんかは頼れば来てくれるだろうけど、あいつだって平日は忙しいし」
そもそも、平日この位の時間には鹿島はもう寝てる。
何しろ、朝早くから仕事だし、そうでなくても忙しい。
あと、下手にまた週刊誌に撮られるのも嫌だっていうのと、先輩と俺がまた付き合いだしていることに、あんまり良い感情持ってないから、頼みにくいってのもある。
一言頼めば、二つ返事で来てくれるのは予想つくけど。
先輩の手に少し力が入って、顔を見上げたら少し険しい顔をしてた。
……そんな心配しなくても大丈夫だっての。
安心させるように先輩の手をぽんぽんと軽く叩いた。
「……政行さん」
「ん?」
「そんな心配そうな顔しなくたって、大丈夫だって」
あー……何か凄ぇ眠くなってきた。
繋いだ手が温かくて気持ち良いからかな。
「……今日はしくじっちまったけど、普段はちゃんと一人でどうにか出来るか……ら」
出来るっていうか、しなきゃなんねぇんだよな、子どもじゃねぇんだし、なんて頭の中で思いながら、本格的に襲い始めた眠気に素直に身を任せた。
***
深夜に目が覚めた時、まだ先輩の手と繋いだままだった。
先輩はというと、床に腰を下ろしてベッドに寄りかかるようにして眠っている。
慌てて、先輩の肩を揺さぶって起こした。
「先輩。……政行さん。そんな寝方じゃ身体に良くねぇよ。スーツも皺になっちまう」
「ん……?」
眼鏡を外して目を擦ると、ようやく先輩も状況を把握したらしい。
「あー……悪い、いつの間にか寝ちまった」
「スーツだけ脱いで、ベッド入って下さい。スペースなら大丈夫だから」
「そうするわ」
繋いでた手を離して、先輩がスーツを脱いでハンガーに掛けた。
パンツだけの姿になると、ベッドに入ってきたけど、その腕が俺を抱き寄せて来たから少し慌てる。
「ちょ、待てよ。俺、今日風呂入ってねぇし、吐いたから、その臭うと思……」
「今更気にしねぇよ。夜、風呂入ってないのはこっちもだし。あー、明日会社行く前にシャワー借りるな」
「ああ、それはいいけど……政行さん」
「ん?」
「……ホント、ごめん。疑われる材料増やしたよな、泊まりなんて」
普通、昔の後輩だったとはいえ、仕事仲間が体調悪いからってその相手の家に泊まっていくことはしねぇだろう。
よっぽど親しい友人関係とまでなるとわからねぇけど、先輩と俺は再会するまでは十数年音信不通の状態だった。
先輩が奥さんに対して、適度に俺のことを説明してるなら、今回のはちょっとおかしい位は思ったりするんじゃねぇか?
「おまえが気にする事じゃねぇよ。変なこと考えず、寝とけっての」
抱き締めてくれる腕に少しだけ力が入る。
優しく言い含めるような言葉は、それ以上言うなって風にも取れた。
俺が体調悪いせいもあるんだろうけど、今日は凄ぇ甘やかされてる気がする。
ごく近くにある体温の心地良さに、再び眠気が襲って来た。
「……いつもこうだったら、良いんだけどな」
朝まで、先輩の体温を感じながら日々眠れたら、それこそ疲れていようが、しんどさなんて吹き飛びそうな気がするし、一晩一緒に過ごせるってなったら、慌てて帰る為に仕事を切り詰める必要もねぇんだけどなぁ。
「? 何か言ったか?」
「ん、何でもねぇよ。明日も会社あるんだから、寝ようぜ。おやすみ」
「……ああ。おやすみ」
けど、それは夢物語だ。
先輩が本来居る場所はここじゃない。
朝が来なきゃいいのになんて、勝手な感傷に溺れながら、再び眠りの海に沈んだ。
***
政行さんがシャワーを浴びて、身支度してるのを俺はパジャマ姿のままで見てる。
昨日に比べれば大分マシだけど、やっぱりまだ食欲もねぇし、満員電車を無事にやり過ごせる自信がないから、休むことにした。
「実琴。おまえのネクタイ一本適当に借りていいか?」
「ん? ああ。何でも構わないぜ。あ、ワイシャツ……は流石にサイズちょっと合わねぇか」
「おまえ、首細い上に、腕は俺より長いからなぁ。こっちは諦める」
ネクタイみたいにサイズ関係ねぇやつだとまだしも、ワイシャツやスーツみたいにサイズが違ってくると、貸し借りには限度がある。
「一枚か二枚くらいは、先輩のワイシャツ置いといてもいいかもな。ネクタイも先輩と俺の趣味、ちょっと違うし」
「まぁな。おまえと俺の趣味、基本的に合わねぇからなぁ。でも、これは結構好きだぜ」
「…………あ」
先輩が選んだネクタイに気付いて、つい口ごもる。
そこそこの本数があるはずの中から選んだネクタイには、少しばかり思い入れがあった。
「ん? どうかしたか?」
「……いや、それ、昔別れるちょっと前にせ……政行さんにあげようと思って買ったやつだから。趣味考えたらその辺りかなって思ったのは、外してなかったみたいだな」
「実琴」
結局渡しそびれてしまったから、自分で使うようになったネクタイだが、俺にはイマイチ似合わずに、あまり使わないでいたやつだ。
当時、自分のネクタイ買いに行って、ふと店先で見かけたこれが先輩には絶対似合うって思って、つい買っちまったんだよな。
ストライプのネイビーを基調としたシルク入りのネクタイは、やっぱり先輩には良く似合ってた。
「何度か使っちまってて悪いけど、良ければそれ先輩用のネクタイにするから、使ってくれ」
「へぇ、だったら、プレイの時にネクタイ使って、ちょっとそれで帰るのが都合悪くなった時なんかには丁度いいな」
「…………俺、そういう意味で言ったんじゃねぇんだけど」
「冗談だって」
「冗談に聞こえない冗談は、冗談って言わねぇよ」
実際、高校時代に学校でセックスしてて声出さないように、ネクタイで口塞がせるとかやったじゃねぇかよ――とまでは勿論口にしない。
うっかり言ったら、じゃあ元気になったら久々にやってみるか、ぐらい言い出しかねない人だ。
「…………」
何か、先輩が呟いた気がしたけど、聴き取れなかった。
「え?」
「いや。何でもねぇよ。とりあえず、朝飯食うか。おまえ、何か食えそうか」
「んー……いや、まだいいや。あ、でもスポーツドリンクだけ貰う」
先輩が昨日色々と買ってきてくれた物の中から、自分の朝食用のおにぎりと食いつつ、俺にスポーツドリンクのペットボトルをくれた。
常温のスポーツドリンクを一口含むと、優しく身体の中に染み渡っていく。
昨日と比べるとやっぱり身体は楽になってるから、病院は行っといて正解だったな。
「俺は今日も一日休んどく。大分楽にはなったけど、無理するとぶり返しそうだし」
「ああ。その方がいい」
先輩が洗面所に行った隙に、そういえば結局先輩との連絡用のスマホを全然見てなかったなって思い出して、チェックしてみると予想以上の着信履歴とメールとメッセージが入っていて、相当心配させてしまってたのが分かった。
……そりゃ、これだけやって反応なけりゃ、プライベート側のスマホに連絡入れてくるし、家にも訪ねてくるよな。
とりあえず、メールとメッセージの方にはそれぞれ迷惑かけてごめんと返しておいたところで、時間を確認したら、そろそろ先輩が会社に行くのに余裕のない時間になっていた。
「政行さん、そろそろ出ねぇとマズいんじゃねぇの?」
「ん、ああ、今行く」
さっき、カバンの中身チェックしてたみたいだから大丈夫だろうと、リビングに置いてあった先輩のカバンと、掛けてあったコートを取って、洗面所から出て来た先輩にそのまま渡した。
一瞬だけ先輩が驚いた顔をしたけど、直ぐに目を細めて笑いながら受け取り、コートに袖を通した。
玄関まで行くのをそのまま見送る。
「帰り、また寄るな」
「ん……行ってらっしゃい」
扉を開けて出て行くかと思いきや、先輩が俺の方を振り返ると俺の頭を引き寄せるようにして、キスして来た。
え、ちょっと、待った。
軽く唇を触れ合わせただけの、温かくて柔らかい感触は直ぐに離れていったけど、頭の中で今何があったのか、上手く思考回路が働いてくれてない。
「なるべく、早く帰る。ちゃんと薬飲んで寝てろよ」
「え、あ……うん」
何とか、それだけ返事はしたもののそれが精一杯だった。
玄関の扉が閉まった音に鍵をかけないとと思っているはずなのに、足が動かない。
「なん……だよ、今の」
しばし玄関の扉を眺めた後、その場に座り込んだ。
玄関での行って来ますのキスって何だ、それ。
野崎の描いてる漫画で出てくるようなネタじゃあるまいし。
しかも、今。先輩は『帰る』なんて口にしたような。
「何かまるで――」
新婚夫婦のやりとりみてぇだ、なんて思ったら一気に顔が熱くなった。
せっかく下がった熱が再び上がってきたような気さえする。
唇にキスされること自体は珍しいわけじゃない。
が、玄関でキスなんて初めてされた。
しかも、あんな優しいキスも珍しい。
結構深いキスが好きで、舌入れたがってくることが多いのに。
大体、先輩が唇にキスしてくるときは、セックスが始まる時ってほぼ相場が決まってる。
それ以外も皆無ってわけじゃねぇけど、いや、でも。
「……どうなってんだ?」
先輩の行動が嬉しいと思う一方で、何か妙に胸騒ぎがした。
[堀Side]
「休み?」
「ええ、昨日退勤する時にも大分具合悪そうにはしてたんですけど、今日は全然起きられない状態だからって欠勤の連絡あったんです」
御子柴が担当している部分の資料は預かってきておりますので、と言う先方のチームリーダー相手に、表向きは無難に仕事の話を進めつつも内心では舌打ちしたい気分だった。
昼時に送ったメッセージに反応がなかったから、おかしいと思ったんだ。
……実琴が会社休むくらいに体調悪いなんて、聞いてねぇぞ。
最近、ちょっと帰りも前より遅い日が多かったし、疲れた顔をしていたのは少し気になってた。
この様子だと昨夜のどうしても外せない仕事先との飲み会ってのは嘘だな。
今日はプロジェクトの会合で会えるから、多分それまでにどうにかするつもりで出来なかったとみえる。
何で、そんなつまんねぇ意地張るんだよ、あいつ。
取りあえず、今日は仕事早めに片付けて実琴の家に行くことにしよう。
***
「大丈夫かよ、あいつ」
仕事を終わらせて、御子柴の家に向かう途中、俺との連絡用のスマホから、電話、メール、メッセージと、それぞれで連絡しようとしても一向に繋がらない。
家ん中でぶっ倒れたりしてんじゃねぇのか、これ。
俺との連絡用のスマホは他のことでは使っていない。
充電してるタイミングで、手元に置いてないだけの可能性も考えられなくはないが、俺に連絡しないままなら、こっちから動くだろう事はあいつなら分かっているはずだ。
駅を降りて、つい足早に御子柴の家に向かうと、ちょうどエントランスが他の住人によって開いたところだったから、そのまま滑り込む。
スマホを確認してみるも、相変わらず実琴からの反応はない。
実琴の部屋がある三階まで階段を上って、直接部屋の前のチャイムを鳴らした。
扉の奥、耳をすまして聞いてみるも、中で物音はしない。
もう一度、連絡用のスマホから電話してみるが応答はない。
こうなったら扉をガンガン叩いてみるかと思ったところで、ふとプライベート用のスマホから連絡することを思いついた。
これと仕事用のスマホ側には、実琴のプライベート用のスマホの連絡先が入っている。
とはいえ、プライベート用のスマホにはロックしていないし、女房に勘ぐられる材料を増やすから、基本こっちでは実琴に連絡しない。
仕事用のスマホはさっき電池がほぼ無くなってしまっていた。
「……仕方ねぇな」
これで出なければ、マンションの管理人に連絡してでも部屋を開けて貰おう。
少し焦りながらも、プライベート用のスマホから実琴に電話すると、今度はちゃんと応答があった。
「……はい」
聞こえてきた声が随分擦れてはいるものの、連絡がついたことに心底ほっとした。
「実琴!? おまえ、大丈夫か? 今、おまえの部屋の前にいるから開けろ」
「え!? 何でここに」
「下のオートロックだったら、他の部屋の住人がちょうど来たとこだったから、そのまま入らせてもらった。いいから、開けろ」
「……っと、待って下さい」
一旦、電話を切るとスマホをコートのポケットにしまう。
扉の向こうから、物音が聞こえて、鍵が開いた音がした。
すかさず、玄関の扉を開ける。
「大丈夫かよ、おまえ。メッセージも返信ねぇから……おい、大丈夫か?」
「すみま、せん……ちょっと目が回っ……」
どうみても尋常じゃない顔色で、口元を押さえている。
大丈夫じゃねぇな、これ。
一度、肩を掴まれたが汚すのを気にしたのか離れようとしたから、実琴の腕を掴むようにして、身体を支える。
「無理すんな。吐きそうならトイレ行くか?」
「すんま、せ……」
玄関を入って、直ぐ右手にあるトイレのドアを開け、便器の蓋を開けたところで、実琴が崩れるようにしゃがみ込んで、吐き始めた。
饐えたような臭いがしたが、便器の中を見たら吐き出しているのは胃液だけだった。
これ、まともにもの食えてねぇな。
「けほ……っ」
背中をさすってやりながら、体温も普段より高いことに気付いた。
どうにか、吐き出せるだけは吐いたらしいと判断したところで、胸ポケットからハンカチを出して渡すと、実琴が素直に受け取って口元を拭いた。
「す……んませ……」
「……おまえ、今日全然食ってねぇだろ。胃液しか吐いてねぇ」
「あ……どうにも食うのも……飲むのも気持ち、悪くて」
「水もダメか」
だったら、脱水症状起こしてる可能性もあるし、病院行った方がいい。
「……病院連れてく。寝ててどうにかなる状態じゃねぇよ。おまえ、かかりつけの病院とかあるか?」
「や、特には……」
「じゃ、救急指定の病院でいいな。タクシー呼ぶから行くぞ。保険証どこだ? あと、この家の鍵」
「財布の、中……です。鍵も財布の直ぐ近く」
「ああ、あった。これだな」
普段は仕事用のカバンにそれらを入れてあるのを知っているから、探すと直ぐに両方とも見つかった。
確か、ここ駅の反対側から歩いて五分くらいのとこに市立病院があったはずだ。
土地を探したときに病院が近くだから、何かあった時に便利だろうと思った記憶がある。
歩きでも行ける距離だが、今のこいつにはそれはしんどいだろう。
俺の自宅がある駅とも近いから、多分うちで使ってるタクシー会社と同じとこ呼べるはずだ。
電話して聞いてみたら、案の定営業範囲内だから、十分弱で来てくれるって話だった。
リビングに渡してあるポールに掛かっていたハンガーから、実琴が普段着ているコートを取って、丁度戻ってきた実琴の肩から掛けた。
「着てろ。タクシー、十分以内には来るって言うから」
「ホントすみません」
どうせ、ここに一度戻るつもりだから、仕事のカバンは置いておき、自分の財布とプライベート用のスマホ、あとは実琴の財布と家の鍵だけ持って、家を出た。
が、玄関を出て直ぐに、実琴が小さく声を上げて顔を曇らせる。
……そうだ、ここ階数あんまねぇから、エレベーターなかったんだよな。
体調悪いと、階段の上り下りはキツいだろう。
「階段平気か? 背負ってやろうか?」
「……肩だけ、貸して貰っていいっすか」
実琴がそう言ってきたから、身体を支えつつゆっくり階段を降りていく。
が、足元がどうにも覚束ない。
これで、三階分降りていくのは無理だと判断して、一度踊り場に着いたところで、足を止めた。
「……おまえ、無茶するな。背負うから乗っかれ」
「え、でも」
「実琴」
しゃがんで、背負う体勢を取って促す。
「…………ごめん」
やっぱり、身体がキツかったのか、思ったよりは素直に俺の背にのし掛かってきた。
「よ……っと」
かけ声を掛けて、勢いをつけ、背負う。
首筋に当たる、実琴の体温と吐息が熱い。
あんまり揺らさないように気をつけながら、階段を降りていると、実琴が何か呟いたような気がした。
「何だ? どっか痛かったり、気持ち悪かったりすんのか?」
「平気。何でもねぇよ」
何となく引っかかりはしたが、そのまま流すことにしておいた。
***
実琴が診察室に呼ばれてしばらくの後。
看護師が出て来て、待合室に向かって声を掛けた。
「御子柴さんのご家族の方、いらっしゃいますか?」
「あー……っと、友人、ですが」
「ご家族の方はおいでではないですか?」
「ああ、今日は来られなくて」
何となく、看護師の言葉に壁を読み取ってしまい胸が軋む。
そりゃ、家族と友人って立場じゃ全然違うのは分かっちゃいたけど。
「過労に風邪が重なったようですね。食べられないし、飲み物も飲めなかったとのことで、軽く脱水症状を起こしていました。今点滴を打ってますが、終わったら帰れますので」
「そうですか。ありがとうございます」
軽く会釈して看護師が去ったところで、ほっと一息吐く。
大きい病気とかじゃなかったのは、ホントに良かった。
とりあえず、実琴がまだ戻ってこなさそうなうちに、電話を掛けられる場所を探して、女房の携帯に連絡した。
「あー……俺だ。悪い。今日帰れない。後輩が体調悪くて、救急病院まで連れてきたけど、そいつ近くに身内いねぇから、ちょっとついていてやりたい」
「……後輩、って前に買い物してるときに会った御子柴さん?」
「ああ」
そこは下手に誤魔化すよりも正直に言った方がいいだろうと肯定しといた。
電話している場所が受付に近いせいか、受付でのやりとりの声が向こうにも聞こえたらしい。
「あ……そこ、もしかして桜谷にある市立病院?」
「ああ」
「御子柴さんの家、その近くなの? だったら、診察終わったら帰って来られるんじゃない?」
「だから、言ったろ。御子柴の身内近くにいねぇから、ついていてやりたいって」
苛立ちを何とか声に出さないように応じる。
……実琴の家のおよその場所を知られたのは、ちょっとマズかったか。
けど、流石に否定のしようもない。
そんなことしたら、余計に不信感を煽るだけだろう。
女房が軽く溜め息を吐いたのは聞こえたが、納得はしてくれたようだ。
「……分かったわ。じゃあ、こっちは玄関のドアガードしておいても構わないのね」
「ああ、悪いけど戸締まり頼む。おやすみ」
「おやすみなさい」
通話を切って、つい息を吐いた。
不自然さは出さなかったと思うが、後ろめたさがあったからか、どうにも緊張する。
実琴を待つために元の場所に戻ったら、ちょうど実琴が診察室から出て来たところだった。
「実琴」
さっきよりも足取りが心持ちしっかりしていてほっとした。
点滴で少しは体調を持ち直したのか、顔色もマシになっている。
「すみません、迷惑かけちまって。会計済んだら帰っていいって言われたんで、もうこっちは大丈夫ですから」
「いい。今日はこのままおまえの家に泊まっていく」
「でも」
「いいから。とっくに家にも言ってある」
そう言った途端、実琴の顔がほんの一瞬だけ泣きそうになったように見えた。
「……ごめん」
「謝るんじゃねぇよ。ほら、コート」
「ん……」
預かっていた実琴のコートを渡すと、大人しくコートに袖を通した。
***
体調不良に加えて、病院に行った疲れもあるのか、実琴が家についた途端にコートだけ脱いで放ると、ベッドに横になった。
床に落ちたコートを拾ってやって、ハンガーに掛けると小さくすんませんという声が聞こえた。
「気にすんな、病人。……寝るまで傍にいてやるから、もう大人しく寝ろ」
ベッドに腰掛けて、布団から出た実琴の手を握ると、実琴の方からも俺の手を握り返してきた。
身体弱ってる時は心細いよな。
「過労と風邪っつってたな。そういや、帰宅時間、このところ少し遅かったっけ。忙しかったのか」
「ああ……まぁ、ちょっと。最近転職で入ってきた新人の指導とかあったからなぁ……かといって、あまり自分の仕事後回しにしちまうと、先輩と会う時間少なくなるし」
無理したのは俺と会う時間を捻出する為か。
……バカだろ。
嬉しい部分も正直あるけど、それでこんな風になられたんじゃ心配の方が勝る。
「それでぶっ倒れてちゃ意味ねぇだろ。……若くねぇんだから、あんまり無茶苦茶やるともたねぇぞ」
「……すんません」
実琴の前髪を掻き上げて額に軽くキスすると、ちょっと表情が柔らかくなった。
「というか、ここまでなる前に何で――」
俺に言わない、と言いかけて気付いた。
言えなかったんだ。
俺の方には家庭があるから。
頼りたくても、こいつは頼って来ることが出来ない。
「……親父がちょっと前から、あんま身体の調子良くなくて。だから、あんまり親には気遣わせたくねぇんだ。鹿島なんかは頼れば来てくれるだろうけど、あいつだって平日は忙しいし」
確かに、鹿島は朝のニュース番組にも出ているから、平日は基本的に早寝早起きだとは言っていた。
大体、あいつの場合は立場もあるから、やっぱり気安く頼むのも難しいだろう。
……待てよ。
こいつ、兄弟確かいなかったよな。
だったら、恋人である俺がダメ、親がダメ、親友もダメとなったら、結婚して家族がいるわけでもないこいつは、いざという時にどうしたら――。
つい握っている手に力が入ってしまったのか、実琴がもう一方の手で、俺の手をぽんぽんと軽く叩いた。
「……政行さん」
「ん?」
「そんな心配そうな顔しなくたって、大丈夫だって。……今日はしくじっちまったけど、普段はちゃんと一人でどうにか出来るか……ら」
眠気が限界だったのか、実琴の言葉尻が小さくなり、直ぐに寝息が聞こえ始めた。
そっと、髪を撫でても起きる様子はない。
こいつ、結構寝入った直後は眠りが深いんだよな。
さっきみたいに、額にキスしても起きる気配は全くなかった。
「……どうにか出来てねぇだろ」
こいつにこんな風に振る舞わせているのは、俺のせいだって分かっている。
甘えさせてやれてないのは、こっちに家庭があるからだ。
…………実琴に無理をさせている原因は、俺だっていうことに胸が締め付けられる。
今回はまだ点滴する程度で済んだけど、それだって俺が来たのが明日だったら、もっと症状が進んで酷いことになっていたかも知れない。
「…………ごめんな」
実琴に聞こえないのは分かっていたけど、言わずにはいられなかった。
***
「先輩。……政行さん。そんな寝方じゃ身体に良くねぇよ。スーツも皺になっちまう」
「ん……?」
いつの間にか、実琴の手を握ったまま床に座り込んで、ベッドに寄りかかるように眠ってしまっていたらしい。
まだ、部屋の暗さを考えると夜は明けてない。
「あー……悪い、いつの間にか寝ちまった」
「スーツだけ脱いで、ベッド入って下さい。スペースなら大丈夫だから」
「そうするわ」
セミダブルのベッドは、男二人でもどうにか寝られないことはないし、流石にこの時期はまだ寒い。
ハンガーを借りて、スーツを脱いで掛け、パンツ一丁でベッドに入り込むと実琴を抱き寄せた。
伝わった体温で熱が下がっていることが確認出来てほっとする。
「ちょ、待てよ。俺、今日風呂入ってねぇし、吐いたから、その臭うと思……」
「今更気にしねぇよ。夜、風呂入ってないのはこっちもだし。あー、明日会社行く前にシャワー借りるな」
「ああ、それはいいけど……政行さん」
「ん?」
「……ホント、ごめん。疑われる材料増やしたよな、泊まりなんて」
「おまえが気にする事じゃねぇよ。変なこと考えず、寝とけっての」
抱き締めはしたが、あまり触ってるとそれだけじゃ止まらなくなりかねないから、手は動かさない代わりに少しだけ抱く腕に力を入れた。
「…………たら、良いんだけどな」
「? 何か言ったか?」
「ん、何でもねぇよ。明日も会社あるんだから、寝ようぜ。おやすみ」
「……ああ。おやすみ」
それ以上、言うつもりはないんだろうと思ったから、聞き返しはしなかったが、『いつもこうだったら、良いんだけどな』と聞こえた気がした。
……そうだな。いつもこうだったら良いよな。
ずっと、実琴の傍で一緒に過ごして行きたいって欲求は、時間を重ねる都度に大きくなる。
――ご家族の方はおいでではないですか?
今のままだと、俺たちの関係はどこまで行っても『他人』でしかねぇんだよなと、病院で思い知らされた気がした。
日本じゃ同性での結婚は出来ないが、養子縁組って手段はあるし、条例で同性カップルを結婚に相当する関係と認めているところもある。
――俺は実琴と『他人』のままで終わりたくなかった。
***
「実琴。おまえのネクタイ一本適当に借りていいか?」
「ん? ああ。何でも構わないぜ。あ、ワイシャツ……は流石にサイズちょっと合わねぇか」
「おまえ、首細い上に、腕は俺より長いからなぁ。こっちは諦める」
朝、実琴の家のシャワーを借りて、身支度を整えながら、せめてネクタイ位は変えた方がいいかと、実琴のネクタイを借りることにした。
どうせ、今日は帰りにもここに寄るつもりだから、その時にでも返せばいい。
「一枚か二枚くらいは、先輩のワイシャツ置いといてもいいかもな。ネクタイも先輩と俺の趣味、ちょっと違うし」
「まぁな。おまえと俺の趣味、基本的に合わねぇからなぁ。でも、これは結構好きだぜ」
「…………あ」
借りたネクタイを見て、実琴が目を見張った。
「ん? どうかしたか?」
「……いや、それ、昔別れるちょっと前にせ……政行さんにあげようと思って買ったやつだから。趣味考えたらその辺りかなって思ったのは、外してなかったみたいだな」
「実琴」
だったら、このネクタイは十数年前のものってことになる。
年数の割りには傷んだ様子がないのは、あんまりこいつが使ってないからだろうな。
何気なく目に留めて手にしただけだが、そんなネクタイを選んだことに少し驚いた。
俺たちの趣味は確かに合わないけど、それでも合わないなりに相手が好きな傾向は分かるんだよなぁ。
俺も多分、実琴が好きそうなネクタイは選べるだろう。
実琴はそこそこネクタイの本数持ってるのもあって、何かをプレゼントする時にも、ずっと対象からはネクタイを外して選んでるけど、店先で実琴に似合いそうなネクタイに目を留めたことは何度かある。
「何度か使っちまってて悪いけど、良ければそれ先輩用のネクタイにするから、使ってくれ」
「へぇ、だったら、プレイの時にネクタイ使って、ちょっとそれで帰るのが都合悪くなった時なんかには丁度いいな」
「…………俺、そういう意味で言ったんじゃねぇんだけど」
「冗談だって」
「冗談に聞こえない冗談は、冗談って言わねぇよ」
苦笑いしながら、軽口に応じられるぐらいには体調が回復してるらしい。
これなら、今日一日休めば、大分元気になるだろう。
「…………良かった」
実琴には聞こえない位の声で呟く。
「え?」
「いや。何でもねぇよ。とりあえず、朝飯食うか。おまえ、何か食えそうか」
「んー……いや、まだいいや。あ、でもスポーツドリンクだけ貰う」
昨夜、実琴に差し入れるために色々買って置いた飯の中から、適当に取り出して自分の飯を食いつつ、実琴に水のペットボトルを差し出す。
大分、顔色が良くなったとはいえ、流石にまだしんどいらしく、実琴はパジャマのままだった。
「俺は今日も一日休んどく。大分楽にはなったけど、無理するとぶり返しそうだし」
「ああ。その方がいい」
朝飯を済ませて、歯を磨きながら、ふとあまりこの家に表立って俺のもの置いてねぇよなぁと気付いた。
歯ブラシと歯磨き粉は自分用のを元々置かせて貰ってるが、それだって普段は洗面台の戸棚の中だ。
付き合っている相手がいる、と家を訪れた相手に、下手に思わせないように何だろうが、一抹の寂しさを感じた。
……女房と別れて、堂々と付き合っていることを表に出せたなら、色々違ってきたんだろう。
前の旅行以来、実琴は俺の名前を呼んでくれるようにはなったが、まだ先輩って言葉も出るし、敬語も完全には抜けてない。
俺を必要以上に頼るまいとしていることが、感覚を隔ててしまっている原因でもある気がした。
「政行さん、そろそろ出ねぇとマズいんじゃねぇの?」
「ん、ああ、今行く」
考え事をしていたら、意外に時間が経っていたらしい。
急いで口をゆすいで、洗面所を出た。
実琴が俺のコートとカバンを持っていて、それを手渡してくれる。
……何か、こういうの夫婦みたいでいいな。
いや、まぁ、実琴も今日はともかく、普段は会社行くから、ちょっとやりとりの形違ってくるだろうけど、何となく照れる。
「帰り、また寄るな」
「ん……行ってらっしゃい」
何気なく言われた『行ってらっしゃい』の一言に心が跳ねた。
……ずっと、こんな風に朝にちょっとしたやりとりして、帰ってまたこいつと他愛もない話をして一日を過ごしていけるなら、どんなに楽しいだろう。
実琴の頭を引き寄せて、軽く唇を重ねた。
ちょっとびっくりしたらしいが、実琴も拒まずにそのまま応じてくれた。
そういや、玄関でキスなんて漫画なんかで出てくるようなベタな真似、この歳にして初めてやったな。
「なるべく、早く帰る。ちゃんと薬飲んで寝てろよ」
「え、あ……うん」
まだ、戸惑ったような表情をした実琴が可愛いなんて思いながら、家を出た。
***
なるべく早くに実琴の所に行けるようにと、ほぼ定時で会社を出た。
実琴の家に戻った時には、一日休んだからか大分実琴の顔色が良くなっていたし、食欲も復活していたことに安心した。
二人で夕食を食って、帰りがたい気分をどうにか堪えて家に帰ったが、玄関前でふと家を見上げて、実琴と一度別れてから過ごしてきた日々を思い出す。
結婚することを選んだのは自分だし、政弥が生まれた時は本当に嬉しかった。
けど、心の何処かに穴が開いたような虚ろな感覚はどうしても長いこと消えてくれなかった。
――実琴に再会できるまでは。
再会して、セックスして、あいつの存在を全身で感じて、ようやくあの虚ろな感覚は掻き消えた。
触れる度に満たされるが、十数年飢えていた分にはまだ足りなくて、離れていると会いたくて堪らなくなる。
セックスや食事を一緒にするだけじゃ物足りない。
認めてしまうのには時間がかかったが、結局、俺は実琴じゃなきゃダメなんだろう。
長年掛けて、あいつと逢えるようにしたのは正解だったが、その分実琴にキツい思いをさせているのも確かだ。
かといって、それであいつが他の誰かと家族を持つなんてのは想像もしたくないんだから、我ながら勝手だと思う。
けど、一人になんてしたくない。
一緒にいたい。
少なくとも、こんな風にあいつに負担を掛けてしまうばかりの関係は、もう終わりにしたい。
「……区切り、つけるべきだよな」
政弥はもう浪漫学園に合格しているから、少なくとも親の離婚で動揺して高校に落ちるなんてことを心配する必要は無い。
女房にしたって、元はうちの会社にいたんだし、義父もいるから仕事に復帰もさせて貰えるだろう。
流石に俺は今の会社にいられなくなるだろうが、他社からの引き抜きの話は以前から数件来ている。
しばらく年収が下がることにさえ目を瞑れば、どうにかなる目処はつく。
いや、寧ろ政弥が高校に入学して、新しい生活が始まる前に区切りをつけてしまった方が良いくらいだ。
これ以上、今の生活を続けることは実琴は勿論、政弥や女房にも不誠実でしかない。
腹を括って家の玄関を開け、扉を閉める。
土地も選んで、それなりに拘って建てた家だが、どう考えても俺が出て行くのが筋だろうな。
階段で二階に上がると、女房がキッチンで湯を沸かし始めていたところだった。
「お帰りなさい。御子柴さん大丈夫だった? 何か飲む?」
玄関の扉を閉めた音で俺の帰宅が分かったらしく、コーヒーなり、茶なり淹れようとしてくれていることに、少し良心が咎める。
夕食は外で食ってくることを言っておいたからの対応だ。
……主婦としてのこいつに不満はないし、実際よくやってくれてはいると思う。
それでも、女房と余生を過ごしていくなんて考えるのはもう無理だった。
「あいつならもう大丈夫そうだ。今日は体調も大分回復したって言ってたし。悪かったな。……コーヒー貰えるか」
「はいはい」
女房がコーヒーを淹れるのを待ちがてら、カバンだけ自室に置いておく。
一応、実琴との連絡用のスマホは電源を落とした上で隠し、部屋着に着替えようとしたが、ハンガーに手を掛けたところでそれはやめた。
真面目な話をするんだし、このままの方がいい。
結局、実琴から譲って貰ったネクタイを心持ち締め直して、キッチンに戻る。
丁度、女房がコーヒーを淹れてくれたところらしく、いつもの指定席に既にコーヒー入りのデミタスカップが置いてあった。
「ありがとう」
「どういたしまして。私も何か飲もうかしら。頂き物の紅茶がそろそろ賞味期限来そうなのがあったのよねぇ」
何やら戸棚を確認している女房を見ながら、席についてコーヒーを口に含む。
普段より苦い気がしたのは、多分俺の勝手な心境によるものだろう。
一度深呼吸してから、口火を切った。
「弥生」
「え?」
振り返った女房が戸惑いの表情を見せていたのは、数年振りに呼んだ名前のせいか。
それとも、何処か不穏な空気を読んだのか。
「家のローンはこっちで払う。政弥の学費や養育費も勿論出すし、なんなら、今までの貯金は全部渡しても良い」
「貴方……?」
「――だから、離婚して欲しい。これ以上おまえとは一緒に夫婦をやっていけない。別れたいんだ。いや、別れてくれ。頼む」
「……何、それ。どういう、ことよ……!?」
女房がテーブルに置いた、空のマグカップが鳴らす音がやけに甲高く響いた。
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